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Re:世界征服やめないで


1、忘れないでね、あの太陽とポエトリー


 2021年5月16日、大きなテロが起きて〈文学〉はすべて燃やされた。〈文学〉というのは別に、ドストエフスキーとか太宰治とかガルシア=マルケスとか、そういうものだけじゃなくて、たとえばきみの生まれた日に死んでしまった一匹の蝶や、あの子が放課後の掃除当番のときにきみに言ったあの一言みたいに、火花を散らしながら落下していくすべての存在のことだったから、その日、この世界から奪われた言葉や意味は、銀河一つを埋め尽くすだけの体積を持っていた。



 そして、きみが太陽を直視してしまったのはいつだったのだろう。それは小学六年生のときの全校集会の時、小さい頃の家族旅行で行った夜の真っ暗な露天風呂に浸かっていた時、中学校のときにはじめてカッターナイフで腕を切った時、かもしれないし、もしかしたらお母さんの子宮の中だったかもしれないのだけど、とにかくきみは太陽を、死を、直視した。

「ねぇお母さん、私は見たよ。この世界のぜんぶぜんぶ」





 きみが生まれたのはある年の二月五日だったわけだけれど、そんなきみと全く同じ時間にこの世界に生まれたのが、〈東京オリンピック〉だった。〈東京オリンピック〉の生まれたときの体重は2800gで、出産のときは中々出てくることができなかったから、丸い形をした器具で助産師さんに吸引されながら産まれることになった。

 〈東京オリンピック〉はすくすくと育ったあと高校を卒業して、たとえば地方銀行の外営業の部署で働きながら同じ職場の人と結婚する、とかではなくて十六歳のときに自殺未遂の末、精神科閉鎖病棟に措置入院することになる。


「それでは、〈東京オリンピック〉さんが今までに挫折したことは何ですか?」

「16歳のときに父親からの虐待や、新興宗教に入った母親、私自身の発達障害や理由のない不安などを原因とした自殺未遂をしてしまい、精神科閉鎖病院に入院することになってしまったことです。でも、いまは色々な人の支援もあって、こうやってちゃんと周りの人と同じようにして存在できています」

「そうですか。では、自己PRをお願いします」

「はい、私は太陽です。決して巡り会うことのできない夜を愛していています。また、すべての運動は愛欲あるいは憎悪であり、結合と離散を繰り返しながら過ぎ去っていきます」

「はい、ありがとうございました。これにて面接は終了となります」



 そのとき、〈東京オリンピック〉は一つの〈文学〉だった。路頭に転がって踏みつぶされた缶ビールや、電車の中で誰にも理解されない言葉を叫ぶ老婆と同じような意味で、〈文学〉だった。

 だから、〈東京オリンピック〉もまた燃やされて指先の方から灰へと変わり、〈東京オリンピック〉がいた場所からは無数の物語が流出して、その破片は百億の花になって日本列島を覆った。





 すべての〈文学〉が燃やされてしまったその日、きみは夜の駅の近くの路上に横たわりながらリリイ・シュシュの「愛の実験」を聴いていて、遠くの方に見えるビルを眺めていた。ノイジーなギターとサイケデリックな音がきみの頭の中を侵して、すっかり暗くなった公園の中、ベンチに横たわるきみの頭の中に眩い光が見える。きみのいた公園にも、花は咲き誇っていたけれど、きみにとってそんなことはどうでもよかった。

 光に近づきたい、光はきみを突き刺し、皮膚を突き破り、内臓を露出させる。

「わたしを照らさないでください。わたしを露出しないでください」

 そう願っても光はきみを照らして突き刺して。そして、それは痛みであり、同時に恍惚でもあったから、きみは光の方を目指して、もっともっと遠くの方を目指して、二十階建てのマンションの屋上から飛び降りた。

苦しみとか快楽とか価値とか無価値とか、死にたいとか死ぬのが怖いとか好きとか嫌いとか、すべての反復運動を断ち切るために、お母さんの子宮の中にいた頃なんかよりももっと前の状態に戻るために、きみは落下していって。


 そのとき、きみはとっくに忘れてしまっていたはずの記憶を思い出した。

 「大丈夫だよ、ぜんぶ大丈夫だよ」

 それは、きみが中学二年生のときに、隣のクラスの桜ちゃんと一緒に帰った放課後に聞いた言葉。高台の、白いガードレールとツツジの花がある道路。そこからはきみが住んでいた町が一望できて、それは、数えきれないほどの住宅と電線、町の外れに立つ鉄塔や、もっと遠くにうっすらと見える海、あたらしい、秩序正しく配置された白いマンション。

 そこには、その存在価値を支えるかみさまみたいな絶対的な存在なんていなくて、あまりにも無根拠だったし、その町の中で生きるきみ自身だって、間違って生まれてしまった水の泡とか、ほんとうは海の生き物なのに間違って人間に生まれてしまった生き物みたいなものに思えたけれど、それでも、きみは桜ちゃんが「ぜんぶ大丈夫だよ」と言ってくれるのを聞いて、この世界はぜんぶ大丈夫なんだって、その瞬間に、そう思えた。



 冷たい、透明な風がきみを吹き上げる、二十階建てのビルから地面に落ちるまでは約六秒。きみは空気力学のことなんて何も知らないけれど、自然がきみを空気力学的に最も正しい速度と向きに落下させていく。落下しながら、きみは〈文学〉に近づいていって、きみの中にある太陽が露出して、きみ自身をも溶かして燃えていく。きみも、〈東京オリンピック〉も桜ちゃんも、そのすべてが〈文学〉になって、あるいは一つの詩になって、燃えて、白い灰になって、はらはらと降り注いでいく。



 あのとき、誰かが、きみや、〈東京オリンピック〉や桜ちゃんが燃えて、白い灰になっていく瞬間を見ていたのかと言うと、きっと誰も見てなんかいなくて、でも、たしかにそれは一つの〈文学〉であり一つの詩であったはずだし、それは、誰も知らないポエトリーが燃えて、白い灰になったという、ただそれだけのお話だったから、だから、私は、そのことを忘れない。この世界ぜんぶが終わってしまうまで、ずっとずっと、覚えたままでいる。




2、Re:世界征服やめないで


 やめないで世界征服きみだけが使えた魔法は呪いになって


 自分が昔書いた文章というのはどれも何だか読むのが恥ずかしくて、まともに読み返せないことが多い。それはその作品を書いた時点での「私」と、いまこの瞬間における「私」の間にずれがあるからで、その差異のことを人は成長と呼ぶのかもしれないし、あるいは喪失と呼ぶこともできる。

 『忘れないでね、あの太陽とポエトリー』は2021年の5月に発行したネットプリント「世界征服やめないで」に載せていた短編小説で、特にそれ以降はネット等に上げることなく眠っていたので、今回この『午後三時、砂糖がけのウェブ』に再掲することにした。


 ネットプリント「世界征服やめないで」の由来は相対性理論の「バーモント・キス」の「わたしもうやめた 世界征服やめた 今日のごはん 考えるのでせいいっぱい」という歌詞、あるいはこの「バーモント・キス」をサンプリングした不可思議/wonderboyのポエトリーリーディングである「世界征服やめた」なのだけど、「わたしもうやめた 世界征服やめた 今日のごはん 考えるのでせいいっぱい(もうやめた 二重生活やめた 今日からはそうじ洗濯目いっぱい)」という歌詞を思い浮かべるたびに、あまりにも完璧すぎて怖くなる。


 「世界征服」というのは、すべてのことを知りたいという願望であり、自分が望むすべてのものになりたいという願いを指していると思うのだけど、それは「私」という人間が一人のオリジナルな、唯一無二の存在であれるということでもある。そして、それはたとえば小説の比喩の中で、ライブハウスに響くメロディの一回性の中で可能になるものだけど、今日のご飯を考えるだけで、そうじ洗濯を(生きるためのあらゆる行為を)するだけで私たちは精一杯になってしまう。知りたいことぜんぶを知りたいけれど、何も知りたくない。何も知りたくないし、何も見たくないから、ただ消費されて消費するだけでいいって、そう思ってしまう。


 そして、もちろんこの「世界征服をやめて今日のご飯を考えて、そうじ洗濯をする」ことには結婚、という意味も含まれているはずだと思う。それを「女性は家事洗濯だけをしておけばいい」みたいな旧時代的な価値観の象徴と捉えるのなら、「世界征服」という言葉、そして「バーモント・キス」の歌詞に出てくる「破壊工作」という単語は、いま私たちが生きているこの社会における旧時代的・保守的な価値観や制度への抵抗、という意味も持つわけだけど、同時にこの「バーモント・キス」の歌詞からはむしろ単に受動的にではなくて、もう少し能動的に、肯定的に「世界征服を諦めること(あるいは結婚をすること、抵抗をやめること」を捉えているような印象もあって。


 だから、「世界征服をやめること」は芸術や文化的な意味での抵抗や、もう少し政治的な意味における社会への抵抗を意味するのだけど、そこには諦めることの絶望だけがあるのではなくて、諦めてしまう/諦めてしまったあとの希望や、諦めることでだけ訪れるような幸せに対する肯定もある(世界征服ではなくて、とろけるキッスを、はちみつキッスを目指すということ、もちろんそれは始めから許されている)。


 だけど、もしそれでも私自身に、たとえばあの子に、世界征服をやめてほしくないと願ってしまうのなら、絶えずほどけていく魔法を掛け直し続けて、魔法ではないポエトリーを、魔法ではない音楽を、反語みたいに愛し続けること。『音楽を捨てよ、そして音楽へ』で「音楽は魔法ではない」と歌った大森靖子みたいに魔法的に、『工場日記』を書いたシモーヌ・ヴェイユ、あるいは殉教者のような心持ちで何かを書き続けること。



二枚貝