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永遠(えーえん)に終わることのない自己紹介



1、自己紹介(いまこの瞬間だけ見える天国)

 たとえば終わらないパレード、人身事故と岡崎京子、遊園地のどこかに隠れたまま一泊したあの子が今も眠っている白い冷蔵庫、赤い雪が降り積もる街。ねおりべらりずむ、という名前の猫を撫でているとき、言葉は空虚で、単なる音でしかないと思う(そして、そのリズムは階段に近い)。


 階段を上ること、よりも天国から伸びたあの階段をどこまでも下へ下へと降りていくこと、地獄よりももっと地下にあるもう一つの天国へと向かって下り続けていくこと(あなたは無限に接続されていく、無限に近づくほどに0へと近づいていく、無限へ、0へと到達する一瞬前の瞬間だけを永遠にしてね、この身体を突き刺すための光で。かつて三億の精子と卵子が衝突していったあのスピードよりも速く、なめらかに崩壊していきたいから、みるきーうぇい、みるきーうぇい、1000億個の星たちが眠る天の川銀河の隅っこでおやすみなさい)。



2、言葉について(永久にずれ続けること、絶えず生まれ続けること)

 たとえば「人生」という言葉を発するとして、そのとき私が使う「人生」という言葉と、あなたが使う「人生」という言葉の意味は絶対に同じではないということについて考える。

 更に言えば、現代の人と100年前の人なんかだと、「私」と「あなた」以上に生きている世界が異なっているのだから「人生」という言葉の意味の差異は更に大きくなるはずで、でも、それなのに、100年前に書いた人の文章を読むことができるということは、私たちが根本的に、言葉という海の中で絶えずすれ違い、ずれ続けながらも、接続されているということで、それはとてつもない絶望であるし、ささやかな希望でもある。

 「人生」という言葉も、「寂しい」という言葉(感情)も、そのすべてがその人のその瞬間ごとに絶対に誰とも同一ではないということは、言葉が全く同じものを表象し、再現前化することが決してないということだから、私たちは同じものを指す言葉を使っているようで、必ず、すれ違い続ける。

 私が感じたこと、考えたこと(永遠に続くように感じられる絶望、朝焼けの街の赤さと冷たい空気、抱きしめた瞬間に壊れちゃうものに対する愛)を「言葉」にしたのならそれはすでに現実からずれたものであり、それが誰かに伝わる時には更にずれていくということ、言葉というシステムが始まった時点でもう現実は失われて、あらゆる瞬間において私たちは孤独であり、すべては保持されることなく、絶えずこぼれ落ちていくということ。

 だけど、そのすれ違い、ある一つの「言葉」に対する無限のずれが存在するからこそ言葉というシステムは停止することなく、永久に新しいものを生み出すことができる、その深い絶望と希望を、これからも生きていけたのなら。


3、ご挨拶

 はじめまして、二枚貝です。自己紹介という言葉がありますが、もしかすると、生きるということは決して終わることのない自己紹介なのではないかと、最近は思います(それは文学が行うような「私」の解放であったり、終わらない嘘であったり、あるいは不可避な売春性であったりする)。



 このたびは、「午後三時、砂糖がけのウェブ」という機会を頂けたので、まだ何を書くかは決まっていませんが、とにかく風を、風をあつめて、日記やエッセイ、詩や小説などを書くことができればいいな、と思っています。




二枚貝